ユリアちゃんの履歴と業績


 ユリアちゃんは、すごい人です。たいした人物です。以下は、基本的にユリアちゃんが公に示してきたものから再構成したものです。その足跡をかみしめてください。リンク先が万一みつからなければ、ウェブ魚拓あたりで探してください。クリックしてください。

時期出来事出典
1958年頃 日本に生まれた。著書奥付・カバー
1961年頃 この頃から、オハイオ州クリーヴランドの孤児院で育った。

 ものすごく国際的です。
 でも、ユリアちゃんが卒業した中学校は、卒業証書によると、ユリアちゃんを1961年生まれとしている(著書52頁)のです。そして、来日の時期は、15歳(公式サイト)だったり17歳(著書30頁)だったりします。いつ生まれたか、わかりません。ミステリアスです。

著書14頁以下
  孤児院では、極真空手を習った。著書58頁
1975年夏 祖母が日本に居住していると判明したために孤児院を強制的に退去させられたばかりか、日本に強制的に送還された。

 このユリアちゃんのおばあさまは、同年現在60歳を過ぎたばかりだったそうです。そして、帰化して日本国籍を得たアメリカ人(著書26〜28頁)なんだそうですよ。
 ところで、ユリアちゃんは、飛行機で日本に着いて空港から電車に乗り、電車を一回だけ乗り換えてから、富士山を見ながら広島に向かった(著書9〜10頁)んだそうです。これはすごいことです。そんなことができる空港は、1975年にはありませんでした。成田空港の開港は1978年です。羽田空港からのモノレールは浜松町までしかいけません。名古屋や大阪の空港からは電車に乗れませんでしたし、名古屋や新大阪から広島までの間に富士山を見ることはできません。事実上はじめての日本で、混乱していたユリアちゃんを想像すると、泣けてきます。

著書13〜14頁
1975年秋 「H市内の中学校に3年生」として編入した。以後、いぢめ等に悩む。

 泣ける話が続きます。ぜひ読んでみてください、原文を。

著書20頁
1976年3月 血の繋がらない養親が住むK市に転居した。著書36頁
1976年 九州は「K市の中学校に」「もういちど3年生として転入」した。著書34頁
1977年 高校に進学した。赤みがある髪の毛のため、いろいろ苦労した。著書53頁以下
  いろいろなバイトを始めた。著書60〜61頁
1978年頃 高校2年で停学3回。「影の番長」とまで呼ばれた。著書57〜59頁
1979年4月 高校3年になるとき、大学受験組に所属した。著書62頁
1979年頃 高校3年でウェイトレスのアルバイトを始めた。著書61頁
1979年頃 いろいろあったが、友達に助けられた。著書62〜76頁
1980年「おばあちゃんの家に帰れる」(著書63頁)場所にある「H大学」(著書63頁以下)の、それも「医学部はお金がかかるから、弁護士になろう」(著書63頁)との考えで法学部を志望して見事合格し(著書84頁)、「広島へ」(著書85頁)旅立ったんです。努力が報われて、よかったですね。

 それにしても、不思議です。医学部はお金がかかるというのは、不思議なんです。国立大学なら授業料はどの学部でも同じです。医学部は2年余計に学校に通うからその分が大変だという意味なのでしょうか。でも、奨学金をもらいやすいばかりか塾とかでのバイトもし易いから、なんとかなるものです。私立大学に4年通うよりは国立大学医学部に6年通う方がよほどお金がかからないはずです。きっと、ユリアちゃんは、そんなことを知る暇もなかったのでしょう。

 ややこしいので左欄参照
1980年3月 駅のホームでキスして委員長と別れた。著書86頁
1980年3月 おばあさまと再会した。著書88頁
1980年4月 夜の繁華街で歌手のアルバイトを始めた。著書89〜91頁
1980年12月3日前後 委員長と再会し、やった。

 青春です!

著書92〜99頁
1983年3月頃 大学の学友であるT美が退学した。著書99頁以下
1983年6月頃 T美がナンバーワンソープ嬢になっているのを知り、電話で話した。

 泣けます。色々な不幸が襲ってきて、そして負けないユリアちゃんの力強さはすごいです。

著書101頁
1983年の夏休み 大学四年にして司法試験を諦める。「(日本に)戸籍謄本がないと、日本では弁護士になることはできない」と先生に言われたため。

 これも不思議なことです。問題があるとしても、戸籍謄本などではなく、戸籍謄本のもとになる戸籍があるかどうかのはずです。なのに、法律に詳しい先生が言い間違えたり、司法試験を目指すくらいの学生だったユリアちゃんが勘違いしたりするはずがありません。しかも、1977年には外国籍の司法修習生が採用されています。日本の戸籍がない人も、弁護士にはなれたんです。どうしてこんなことが起きたのか、全然理解できません。

著書105頁
1983年夏 米国の大学の「編入試験」を受験し、合格して渡米した。著書110〜111頁
1983年以降「ジョージア大学」で「児童心理学」を専攻した。

 ジョージア大学は、実在の大学です。

著書114頁
渡米中 ボランティア活動などにも参加した。著書116頁〜21頁
渡米中 K市での養母と双子である実母にアイダホ州で出会った。

 なんという偶然なんでしょう。偶然にしてはできすぎというか、身内だったらもっと早くなんとかなりはしないかとか、色々気になりますけど、そんなことを気にしてはいけないんです。でも、養親の母が「血のつながりがない」とか言っていた件(著書36頁)との矛盾が気になります。

著書113・122〜123頁
1985年4月まで 帰国した。ジョージア大学を卒業したらしいが、H大学の卒業式のために日本に来たことになっている。著書126頁等
1985年4月 帰国と同時に「H大学病院の医局所属の心理士」と「いくつかの大学の非常勤講師」に就任。

 これはすごいです。普通は、大学を出ただけで講師になることはできません。優秀な成績で東大を出ても、最短で3年くらい助手をやってから講義をすることになっています。ユリアちゃんは、そんなくだらない壁を打ち破ったんです。

著書126頁
1985年6月 妊娠が判明した。著書127頁
1986年5月頃 出産等のための「1年近い入院を経て職場に復帰」した直後、准看護婦資格を獲得するための通学を始めた。著書140頁
1988年春頃 2年間の通学を経て准看護婦資格を取得した。著書141頁
その後 自衛官と同棲し(著書183頁以下)、家庭内暴力に悩み(著書190頁他)ながらもその人と結婚した(著書191頁以下)。関係は4年間続いた(著書193頁)。ややこしいので左欄参照。
さらにその後 養父母宅に数ヶ月滞在した。著書196頁
1995年3月 沖縄に移住し、「障害者福祉の実態調査とボランティアの育成」に着手した。著書196頁
その後 沖縄県で離婚の届出が済んでいなかった夫と再会した。著書198頁
その後 夫の暴力のため入院した。著書203頁
2000年頃「沖縄に来て5年目」に、新たな夫と結婚した。著書214頁
2000年6月まで「夫の実家のサトウキビ畑が休耕地に」なっているのを利用して、そこで子供を預かる事業を始めることを思いついた。著書214〜215頁
2000年7月1日 スウィートホームが任意団体として設立された。

 いよいよ、輝かしい未来が始まります。

著書222頁
2001年7月11日 西崎小学校での触れ合い動物園に動物を連れて参加した。琉球新報(外部アーカイヴ)
2002年2月5日 スウィートホームがポニーの保育園へのボランテア出張を始めた。琉球新報(外部アーカイヴ)
2002年4月5日 スウィートホームが特定非営利活動法人になった。著書233頁
2002年6月23日 玉城村での平和めんそーれ無料コンサートに参加。

 この後も、日時がはっきりしないものも含め、いろいろな行事でユリアちゃんが大活躍します。

公式サイト(外部アーカイヴ)
2002年8月 ご著書を出版。経歴の詳細が記される。ご経歴については別頁 
2002年9月22日 豊見城城址公園での動物愛護デーに参加。公式サイト(外部アーカイヴ)
2002年10月12日 那覇まつりで手話ダンスを披露。公式サイト(外部アーカイヴ)
2002年10月19日 幼老共生シンポジウムを開催。公式サイト(外部アーカイヴ)
2002年11月4日 アグネスチャン講演会を開催。公式サイト(外部アーカイヴ)
2002年11月17日 ガールスカウトフェスティバルで手話ダンスを披露。公式サイト(外部アーカイヴ)
2003年1月16日「女の交差点 企画 ユリアさんの生きる道 神様のごほうび〜孤児院からの出発〜」として放送される。番組制作会社のウェブページ (外部アーカイヴ)
2003年11月25日 千葉県の高校で二日に渡って講演。公式サイト(外部アーカイヴ)
2003年 その他、各種イベントに参加。公式サイト(外部アーカイヴ)
2004年8月 現代美術国際交流展オープニングで司会。子供たちと楚洲でキャンプ。公式サイト(外部アーカイヴ)
2004年10月 那覇祭りで手話ダンスを披露。公式サイト(外部アーカイヴ)
2004年11月 東京で講演。公式サイト(外部アーカイヴ)
2004年11月27日 動物の慰霊祭を実施。公式サイト(外部アーカイヴ)
2007年6月23日頃 どこかのイヴェントで、沖縄水産高校生たちと一緒に手話ソングを歌いました。司会者のブログ(魚拓)
2005年7月25日 手話ソングのCDアルバム「『遥かなる想い』EVERYFOREBER」が発売されました。

 綴りがおかしいのですが、原文のままです。きっとユリアちゃんは日本語に慣れ過ぎてしまったのでしょう。

公式サイトミクシー日記
2006年10月16日 ラジオ番組にゲスト出演されました。ラジオの人のブログ(魚拓)
2008年5月15日 雑誌「E,T,S」創刊号が発行されました。ミクシー日記
2008年6月25日 不名誉な事態が晒されました。 
2009年頃 業績や法人を紹介していたところが、やめました。別のペジーを見てください。 

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